龍馬と幕末の史跡めぐり

坂本龍馬や幕末・維新の志士たちの足跡をたどりながら、伏見のまちを散策してみませんか?

 

史跡 御香宮神社

伏見の産土神。鳥羽伏見の戦いでは新政府軍(薩摩軍)の本営がここに置かれ、すぐ南にあった旧幕勢力が立てこもる伏見奉行所に向けて大砲を連射した。境内に「明治維新 伏見の戦跡」碑が建っている。

 


史跡2 伏見奉行所跡

江戸時代の伏見は幕府直轄領で奉行所が置かれていた。鳥羽伏見の戦いでは会津藩や新選組の拠点となった。土方歳三や永倉新八はここから御香宮神社に斬り込みに。近くの魚三楼の表の格子には数筋の弾痕が残る。

 


史跡3 会津藩駐屯地跡(伏見御堂)

伏見御堂が会津藩の宿陣となったことから、この地でも本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあったと伝わる。豊臣城下町の特徴を示す「四辻の四つ当たり」(東西南北どこから来てもまっすぐ進めない)も見どころ。


史跡4 寺田屋

薩摩藩御用達の旅籠で、2つの「寺田屋事件」(有馬新七ほか薩摩藩士の同士討ち、伏見奉行所の捕り方が坂本龍馬を襲撃)の舞台となった。女将はお登勢、後に龍馬の妻となるお龍も働いていた。

 

 


史跡5 龍馬・お龍 愛の旅路像

寺田屋事件で負傷した手の傷を癒す目的もあり、坂本龍馬と妻・お龍はここから三十石船に乗り、鹿児島の霧島へと旅立った。日本最初の新婚旅行と言われている。

 


史跡6 京橋と長州藩邸跡

江戸時代の伏見は大坂との舟運や京都との高瀬川水運、そして大坂、京都、大津、奈良への街道が接続する交通の要所。京橋は伏見のまちの南の入り口で、淀川水運の舟が発着し、旅籠や本陣・脇本陣が並ぶなど大いに賑わっていた。京橋の南西にあった長州藩邸は禁門の変で焼失した。

 

 


史跡7 坂本龍馬避難の材木小屋跡

寺田屋で伏見奉行所の捕り方に襲われた坂本龍馬が深手を負って隠れたとされる材木小屋跡の碑。場所については諸説あるが、このあたりということで。 

 


史跡8 伏見薩摩藩邸跡

寺田屋で坂本龍馬が襲われた際、お龍がここに駆け込んで助けを求め、伏見薩摩藩邸の留守居役・大山彦八が舟を出し龍馬を救った。この水路(濠川)は今もなみなみと水をたたえている。大山彦八はのちの元帥陸軍大将、大山巌の実兄。

 


史跡9 大黒寺

江戸初期からの薩摩藩の祈祷寺。寺田屋事件の九烈士はここに葬られている。墓石の文字は西郷隆盛が書いたものだとか。西郷と大久保利通の会談を行ったとされる部屋がある。屋根瓦には島津家の家紋である丸に十字。

 


史跡10 長建寺と十石舟乗り場

朱色の竜宮門と土塀がひときわ美しい長建寺。八臂弁財天をご本尊とし、中書島遊郭の芸舞妓からの信仰も厚かった。長建寺前から港町伏見の舟運の歴史を今に伝える観光遊覧船・十石舟が出る。

 


史跡11 高瀬川と角倉了以石碑

宇治川派流と旧高瀬川との合流点に、慶長16(1611)~19年に京都伏見間の水運を開通させた角倉了以の顕彰碑が立つ。水深が約30センチと浅い高瀬川は船底が平らな高瀬舟が航行し、舟には船頭が乗り、曳き子が岸から綱で引っ張っていた。

 


史跡12 三栖閘門

水位の異なる濠川(伏見の港)と宇治川の水位を調節し、両川の舟運を可能にする三栖閘門は、いわば船のエレベーター。昭和4年に完成し、舟による貨物輸送がなくなる昭和37年まで稼働していた。三栖閘門は現在も保全され、周辺は舟運の歴史を伝える憩いと散策の場に。

 


散策後には、竜馬通り商店街の飲食店で一休み!
 

 

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